俳優の織田裕二と言えば「踊る大捜査線」ですが、今ほど有名でなかった1991年に、ちょっと面白い映画に主演しています。タイトルは「就職戦線異常なし」。役どころは就職活動中の大学生で、マスコミ志望です。で、なぜマスコミなのかというと、「生涯所得が高いから」。
同じ大学を似たような成績で卒業しても、就職先の業界によって収入が違います。これは社会人として経験を積んでからでも同じで、同一業種でも会社によって年収が違う。つまり、不公平だということです。
それでも、日本はまだ公平なほうらしい。米国のある学者が面白いことを言っています。大小さまざまな大きさの骨を、犬の群れに投げてやる。どの骨にありつけるかは、運である。同じ能力を持つ人々の所得は運で決まるということなのです。
業界や会社が違えば、年収が違うのも、まあ、諦めがつくでしょう。でも、一つの会社の中となると、そうもいきません。公平性が必要です。念ために言えば、「平等」ではない。「仕事の価値(バリュー)に応じた年俸(プライス)」が支払われることが必要なのですが、では、バリューとは、何なのでしょう。
この答えは、1つではありません。典型的なものとしては「責任(要は役職)」「成果」「能力」があります。
役職は、会社が付与するものであり、役職手当に反映されます。成果には、運不運もありますが、必要なのは結果の観察と測定であり、これが賞与につながります。となると個人の価値に直接結びついているのはその人の「能力」だということになるのでしょう。
能力は何によって明らかになるのか。その方法は2つあります。第一は資格です。運転免許にしても、医師の国家資格でも、資格は能力を証明するものであり、人材の価値の直接的な根拠になります。運転免許は持っていないけれど運転の上手な人、医師の資格はないのに手術の腕がある人というのは、捜せばいないこともないでしょう。このような人々のしていることは、そもそも非合法なので論外と言えば論外ですが、彼らは「あたかも有資格者のように行動している」「資格がないことがわかれば罰される」という点では、資格が能力の証明であるという常識を壊してはいないということにもなるのでしょう。
さて、第二は、企業内部の資格制度です。会社によっていろいろな制度がありますが、もっとも普及しているのは、職能資格制度です。すなわち、職能分野別に等級が設けられており、等級の中は、号俸に細分化されています。そして、等級は能力を証明し、等級と号俸とで基本給が決まるというのが典型的です。したがって、職能資格制度は、個人の能力を表現し、これを基本給という「価値」に直結させる仕組みなのだということができるでしょう。
問題は、現在、この制度が「存続の危機」にあるのではないかという点です(次号に続く)。