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第6回:ダイバーシティ
武藤泰明

 直訳すれば「多様性」で、企業で人事にたずさわる人なら誰でも知っている、知っていなければならない言葉になったと言えるでしょう。そうだとすると解説など不要だとも思えるのですが、言葉というのは、ひろく使われるようになると、えてしてもとの意味から離れてしまいがちで、その「離れ方」が人によって違うと、その言葉で議論したり、共通の知見を持つことが難しくなってしまいます。以下は基本的な解説と解釈を試みたものです。

 ダイバーシティは米国で確立された概念であり、会社や行政などの組織で働く人々の中に、少数民族、女性、障害者など、「肉体的に健康な白人男性」以外の人が十分に含まれ、かつそのような人々の処遇が、肉体的に健康な白人男性に劣後しないことが基本的な目的です。

 重要なポイントの一つは「能力に応じて処遇すべき」とは言っていないという点です。たとえば少数民族はそうであるがゆえに教育を受ける機会が限定されており、職業能力を獲得する機会に恵まれていないのだとすると、そのこと自体が不平等なので、その上にダイバーシティを構築・実現しても意味がなくなってしまうのです。違う言い方をするなら、機会の平等が実現できていないなら、結果の平等で担保するということです。

 企業とは、均質化や標準化によって効率・生産性を実現する存在です。したがって、ダイバーシティが求める社員構成は均質化や標準化と相容れぬものであるため、ダイバーシティを実現しようとすることは、効率性・生産性の論理と対抗するものになるはずです。

 では、それにもかかわらず、優れた企業がダイバーシティの論理を受け入れるのはなぜなのでしょう。

 産業革命が起きた頃の労働は、一言で言えばひどいものでした。10歳の子供が1日17時間日照のない炭鉱で働く…たとえばそんな時代だったのです。それを問題視する人々が現れ、児童や女性を保護する施策が整備されて今日にいたっているのですが、このような施策は、言うまでもなく、短期的には企業の収益と相反するものとなります。とはいえ最後は経済合理性より人間性が優先され、それが長期的には産業の近代化と、企業という存在の尊厳を実現してきたことを私たちは知っています。

 おそらく、現在のダイバーシティの議論も、長期的には児童や女性・母性の保護と同じ影響を、人間と企業にもたらすものとなるのでしょう。ですから「人手不足なので今までとは違うタイプの人を採用せざるを得ない」とか「社会からの批判をかわすためにもダイバーシティの実現が必要だ」というような合理性の観点だけでなく、一度、人間性の観点から、この問題を深く考えてみることをお勧めしたいと思います。

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