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第3回:プロスポーツ選手の移籍金
武藤泰明

 このコラムが配信されるころには、サッカーのドイツ・ワールドカップの予選リーグが終盤を迎え、決勝トーナメントに進むチームが決まり始めていると思います。日本代表にはぜひがんばって欲しいと思いますが、今回は、プロサッカーなどのスポーツ選手の移籍金について考えてみることにしましょう。

 新聞のスポーツ欄を見ていると、有名選手がチームを変わるに際しては、かなり高額の移籍金が支払われていることがわかります。英国のマンチェスター・ユナイテッドというチームの主将であったベッカムがスペインのレアル・マドリッドに移った時の移籍金は、推定3500万ユーロ、約49億円でした。

 この移籍金は、選手本人に支払われるものではありません。ベッカムの例で言えば、レアル・マドリッドがマンチェスター・ユナイテッドに移籍金を支払います。ではなぜ移籍金を支払うのか。レアルは、高額の移籍金を支払ってでもベッカムを獲得したい・・・それだけ資金に余裕があるということでもあります。逆に経済的に苦しいクラブは、発掘・育成した選手を放出し、移籍金収入を得てこれを経費に充当することができます。あるいは資金力のあるスポンサーが新たにチームを作ろうとする場合、移籍金を支払って選手を集めてくることになります。したがって、移籍金というのは、選手を受け入れる側のチームが、放出する側のチームに対して、スカウト費と育成費を支払っているようなものだということもできるでしょう。

 サッカー界全体にとっては、このようにして育成費が負担されるメカニズムは重要なものだということができます。もし移籍金システムがなければ、クラブはユースやジュニアのチームを作って若い人々を集め、育成しようとしないでしょう。すなわち、移籍金は、クラブが選手を育成することのインセンティブを高めているのです。

 移籍金を選手から見た場合、クラブ間の異動を自分の意思だけで実行できないといった問題はありますが、システムとしては、やはり良い面があります。これから伸びようという選手にとって、レアルのようなスター揃いのクラブに所属していては出番がないので好ましくありません。これに対して、有名になった選手を放出し続けるクラブは、いわば「若手の登竜門」のようなものであり、ポジションを獲得して出場するチャンスがあります。したがって、若い無名選手はこのようなクラブに集まることになるでしょう。

 さて、企業は人材育成にコストをかけますが、そうして能力の高まった社員が自分の都合でやめたり、引き抜かれて別の会社に移ったとしても、相手の会社から移籍金に類するものをもらうことはありません(例外としては、社費で留学した社員が転職する場合、留学費用を返させるというルールのある会社もあります。この場合、移籍金は本人が支払っているということになるのでしょう)。この理由は、育成した人材を、低いコストで雇用し続けることができるからなのではないかと思います。プロスポーツは能力の伸びた選手には高い年俸を支払いますが、企業が支払う年俸は、能力や成果とそれほど連動していません。そのかわり長期雇用という「未来の安定」があるのが、企業とプロスポーツとの決定的な違いです。

 とはいえ、育成した人材の流出率が高くなれば、企業は育成コストを負担しようとしなくなるでしょう。換言すれば、日本の企業内教育システムは人材の定着を前提とするものなので、いわゆる雇用の流動化がすすむと、企業内教育を強みの源泉としていた企業、あるいは産業社会は、強みを維持できなくなるかもしれないのです。

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