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地域経済の発展に向けて

第17回:ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)と経済発展
武藤泰明

○「孤独なボウリング」と無縁社会

 パットナムという米国の政治学者の著作の一つに、「孤独なボウリング」という面白い題のものがある(邦訳で600ページを超える本なので、面白いと言っても読むことはあまりお薦めしないが)。ボウリングは、一人でしても、あまり楽しいものではない。家族や知り合いとボウリングに出かける。もし一人でボウリング場に出かけたとしても、そこには知り合いがいて一緒にボウリングに興じる。まあそれが自然である。
 コミュニティ。この言葉は日本語になりにくい。一応地域社会と訳されるが、要は米国の「まち」であり、そこには住民の社交場の一つとしてボウリング場があるというのが典型的な姿なのだけれど、そのボウリング場で、一人でボウリングをする人が増えている。要はコミュニティの崩壊で、最近の日本の流行語を使うなら「無縁社会」ということになるのだろう。

○ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)

 政治学や社会学の専門用語で、ソーシャル・キャピタルというのがある。直訳すると社会資本なのだが、日本で社会資本というと道路や橋を指すことが多いので「社会関係資本」と意訳される。これはすぐれた訳で、住民が地域でいろいろな組織に属して社会的な関係を持っている状態を指す。そのような住民は社会のためになるように行動し、それが社会を良くしていくと考えられている。たとえばボランティア団体が海岸のゴミ拾いをするとか、実業団のスポーツチームが福祉施設を訪問するとかいったことも社会関係資本に含まれる。ボウリングに一人で行くというのは前述のようにコミュニティの崩壊なのだが、社会関係資本の観点から言えば、住民が社会関係を持てない状態ということになる。

○経済発展は地域社会の崩壊をもたらさ「ない」

 コミュニティの崩壊にせよ社会関係資本の喪失にせよ、よくない状態である。そしてこれまでの政治学や社会学は、これを都市化と結び付けて考えていた。つまり、都市化が進むと、人間関係が希薄化して、無縁社会になるという論理である。
パットナムのすごいところは、カール・マルクス以降の学者が皆「工業化=都市化=無縁社会化」と言っていたのを、どうもそうじゃないんじゃないかと考え始めたところである。考えただけではなく、長期間にわたりイタリア社会を調査し、工業化がすすみ経済が発展した北イタリアのほうが、伝統的な農村文化が残っている南部より、ソーシャル・キャピタルが充実していることを明らかにした(これについては同じパットナムの「哲学する民主主義」という著作による)。
 工業化が先か、それともソーシャル・キャピタルの充実が先かというのは、判断が難しいところである。パットナムも断定はしていないのだが、仮説としては、ソーシャル・キャピタルが充実しているほうが、工業化と経済発展が進みやすい。なぜかというと、工業化や都市化がソーシャル・キャピタルを充実させるとは考えにくいのだが、北イタリアは工業化、都市化がすすんでいて、しかもソーシャル・キャピタルが充実しているからである。したがって、「ソーシャル・キャピタルが充実していれば、工業化、都市化がすすみ、経済が発展し、かつそうなっても、無縁社会が生まれない」のだと考えることができるのである。
ではなぜ伝統的な地域社会が続いているイタリア南部のほうが、北部よりソーシャル・キャピタルが劣っているかと言うと、南部では住民が有力者に依存し、自分から積極的に社会に参加しないためであるらしい。ついでに言えば、パットナムはこの南部的な社会の典型がイタリア・シチリア島のマフィアであるとしている。コネで就職が決まり陳情や個人的な関係で意思決定がひっくり返る社会は発展しないということである。

○日本の地方のソーシャル・キャピタルはすぐれている

 さて、大分である。大分は東京と比べれば地方であり、伝統的な社会関係が残っている。日本の地域の、このような社会関係が素晴らしいものであることは、東日本大震災の被災者の行動によって図らずも証明されたように思われる。そしてこれによって、大分の地域的な社会関係がどのようなものなのかを容易に推し量ることが可能である。大分に限らず日本の地域社会は、パットナムが描いた南イタリアとは違うのだろうということだ。もちろん、何年か前の教員任免に係わる不正のような問題もあるので、地域のソーシャル・キャピタルがすべて有効で健全というわけではないのだが、見方を変えるなら、このような問題を明るみに出して改善するという「自浄作用」も、ソーシャル・キャピタルの一つだと言うことができるだろう。

○新たな社会関係資本が生まれるために

 一方で、伝統的な地域の社会関係が、次第に希薄化しているのは、都市部だけでなく、大分についても同様なのではないかと思われる。このような問題を解決するための方法は、地域住民が何らかの集団に所属し、積極的・主体的に活動することである。そのためには、町内会や商店会、あるいはもう少し広域の商工会などが社会的な活動を増し、参加者を募っていくことも重要だが、あわせて考えてみたいのは、新しい組織や集団が生まれることである。
たとえば大分は企業誘致にとくに成功している県であるが、このような誘致は地元の雇用を拡大するだけでなく、県外、あるいは県内の他の地域からの人口の流入をもたらす。そうやって、あらたに地域にやってきた人々が加わっていく、あるいは形成する社会関係や組織があることが望ましい。自然に形成されるのに任せるのではなく、そのような組織が生まれることについて、地元や進出企業が支援をしていくことも重要だろう。
 このようにして、地域のソーシャル・キャピタルが充実していくことは、住民の生活の質を高めるので政策目標とすべきことなのだが、隠れた重要な真実は、パットナムにしたがえば、ソーシャル・キャピタルの充実が生活の質だけでなく、経済の発展をももたらすのだという点である。
 この連載でもすでに指摘したように、日本全体の一人あたりGDPは2006年に世界19位、大分県は23位である。つまり、大きな差はない。世界の視野で見れば、日本と大分は似たような経済発展を実現している。そしておそらく、日本と大分の発展に共通する理由の一つはソーシャル・キャピタルの充実である。換言すれば、大分が発展していくためには、地域住民の人間関係が豊かになったり、地域活動が盛んになることが必須なのである。タテ割で経済だけを見ても、経済は発展しないのかもしれない。

<参考文献>
R.パットナム(2001)「哲学する民主主義」NTT出版
R.パットナム(2006)」「孤独なボウリング」柏書房


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