フランスでソムリエが職業として成り立つ理由
知り合いに海外勤務の長い人がいて、それも主に南米。その人に言わせると、南米のワインにはソムリエが不要なのだそうです。
なぜか。まず、ソムリエという職業が成立しているフランスについて言うと、気候が寒冷です。葡萄というのは、痩せた土地、厳しい気候でも育つのだそうで、だからフランスもワインの産地になっていますが、このような環境だと、どの地域で採れた葡萄なのかとか、同じ地域でもどの斜面の葡萄なのかということによって、味が大きく変わります。もちろん、その年の気候によっても変わります。だから、どの地方の、どのワイナリーで、何年産のワインなのかという知識に価値があって、ソムリエという職業が成り立つことになるのです。
ワインの「量産」と低価格化
欧州以外でワイン用の葡萄栽培が盛んになったのは、有名なところで言えば、まずカリフォルニア。最近はチリ、そして南アフリカ産のワインを日本でもよく見かけます。
カリフォルニアの葡萄畑を想像してみてください。広大な土地で、どの斜面かというようなことを考える必要はありません。気候は温暖で、年による葡萄の出来不出来の問題も、あまり大きくないと言ってよいでしょう。南米、南アフリカも、おそらく似たようなことなのだろうと思います。
そんな土地で沢山の葡萄を育てて、言うなれば大量生産です。したがって、細かい産地の区分や収穫年についての知識には、価値がありません。それに、これらの土地でつくられるワインはコストが低いので、産地や収穫年を明確にして、付加価値(=売価)を上げようというインセンティブもないのでしょう。結果として、低価格のワインが大量に世界に供給されています。
40億本の供給過剰
現在、世界のワイン市場で起きているのは、過剰生産と供給過剰です。どれくらい過剰かというと、750ミリリットル(普通のワインボトル)換算で年間40億本。これは、フランスの1年間のワイン消費量とほぼ同じです。これだけ余ると価格が下がります。世界で販売されているワインの3分の1は、末端価格5ドル以下になっています。
スペインやイタリアに行くと、スーパーで2リットルくらいの箱型パック入りのワインをよく売っています。価格は2ユーロ前後。たまにもっと安いのもあります。2リットルだとボトル3本分弱ですから、一本あたりに換算すると100円以下になるのでしょう。これに比べると、日本のワインの価格は下がったとはいえまだまだ高いということです。メルシャンがカリフォルニアから輸入している箱型パッケージのワインの販売が好調ですが、3リットルで実勢価格2300円。ボトル1本に換算すると560円になります。
供給過剰でも生産調整は起きない
ワインが余り、価格が下がると、生産が調整されるのが一般的なメカニズムのはずなのですが、ワインについてはそうなりません。新興国の生産者にとっては、この価格でも利益が出るからです。経済理論ふうに言えば、ワインの価格は、チリや南アフリカの生産者がぎりぎり利益を出せる水準まで下がり得るのです。
ワインが売れてチリや南アフリカの経済水準が上がると、これらの国の賃金、所得が増え―つまり労働コストが上昇し、ワインの価格もいずれ上がっていくのではないか。昔ならそう考えることもできました。そういえば日本も低コスト・低価格で輸出を増やし、所得上昇を実現してきました。
しかし現在、このような発展プロセスを想定することは難しくなっています。というのは、世界の交易網が発達したことにより、発注者はつねに最も価格の低いサプライヤーを選ぶことができるからです。結果として、先進国と新興国のコストの差は小さくなりにくくなっています。新興国の賃金上昇は抑制され、安いワインがいつまでも世界に供給され続けるということなのです。
消費拡大が高付加価値化をもたらす
ワインのこのような「現実」が示しているのは、先進国の生産者は、コストでは永遠(は言い過ぎかもしれませんが)に新興国に勝てないということです。したがって、製造業は、先進国では産業に占める割合が低下し、いわゆる空洞化が生じ、国内には高付加価値の部門だけが残るようになりました。農業では、補助金を給付し、輸入に関税をかけることによって国内の生産者を保護しています。
では、先進国の農業生産者は、補助金と関税以外に生きる道がないのかというと、たぶんそうではありません。世界の食習慣は多様です。日本の中でも、関西では納豆を食べないとか、ネギの種類が関東と関西で異なるとか、広島だけソースの嗜好が違うというようなことがあります。世界は広いので、習慣の違いはもっと大きいでしょう。
ワインを飲む習慣のない地域が世界には多かったのですが、これだけ安くなると、飲用習慣が形成されるようになります。底辺が広がるということです。底辺がひろくなれば、頂点もこれに応じてある程度高くなっていくのでしょう。
最近、中国で日本のコシヒカリが人気だとか、マグロを生で食べる習慣が形成されて日本の寿司ネタが不足するというような事態が起きています。ワインについても、低価格ワインの増加は市場規模の拡大の象徴であり、これに応じて、市場の頂点あるいはその付近の市場規模も拡大していると見るべきなのだと思います。つまり、ソムリエという職業に対する需要は、ワイン飲用習慣があらたに形成された新興国で拡大していくものと思われるのです。
農業の新たなビジネスモデル
このような検討が示しているのは、日本の農業にとって、新興国(先進国でも構いません)の高級品需要に適応していくのが一つのビジネスモデルになるのだろうという点です。
何しろ人数が多い。米国にはすでに日本の食文化がかなり浸透していますが、人口は3億人です。BRICsがかつてのNIEs各国(韓国、台湾、香港、シンガポール)と決定的に違うのは人口が多いことで、中国14億、インド11億、ブラジル1億9000万人、ロシア1億4000万人です。その中に、高級品の購買力のある人もかなり含まれている、そして増えていくと考えるべきでしょう。だからコシヒカリが売れたり、マグロが品薄になったりしているのです。
問題は、日本には大企業はあっても大農業があまりないという点です。新たなビジネスモデルを、誰が担い、実現していくのか、というのが、日本の農業の課題だと言えるでしょう。もちろん、大企業でなければ革新ができないということではありません。いくつかの選択肢があるように思います。その意味では、日本の農業は、組織論を必要とする時代にさしかかっているのだと思います。アルフレッド・チャンドラーの言を借りるなら「組織構造は戦略に従う」のです。